研究者が起業するとき、最初の一歩は何から始めるか
研究シーズはそのままでは事業になりません。最初の一歩は技術磨きでも会社設立でもなく、「誰の何を解決するか」を一文にするDefineの工程です。大学発支援の現場から手順を整理します。
この記事は、自分の研究を事業にできないかと考え始めた研究者と、それを支える大学・支援機関の担当者に向けて、「最初の一歩は何から始めるか」という問いに答えるものです。私たちの答えは、技術をさらに磨くことでも、会社をつくることでもありません。「誰の、何を解決するのか」を一文にすること——私たちの方法論 Value Flow でいう Define(言葉にする)の工程です。
研究の単位と事業の単位は違う
大学のインキュベーション運営や起業家のメンタリングで研究者と話すと、最初の相談はたいてい「この技術で起業できるでしょうか」という形をしています。このとき研究者が差し出すのは、論文や学会発表の単位——手法の新規性、精度、条件——です。しかし事業の単位は「誰が、どんな課題に、いくら払うか」であり、この2つは同じものを別の切り口で切っています。
研究として優れていることと、事業として立ち上がることの間には、翻訳が一段必要です。翻訳を挟まずに研究の単位のまま前に進むと、資料は技術説明になり、聞き手は「すごそうだが、自分に何の関係があるのか」が分からないまま終わります。逆に言えば、この翻訳こそが最初の一歩であり、ここは研究者本人にしかできない部分と、外の視点が要る部分がはっきり分かれた工程です。
最初の一歩は「誰の何を解決するか」の一文
私たちが最初のメンタリングで必ずやるのは、次の形の一文を一緒につくることです。
「(誰)が抱える(何の課題)を、(技術のどの性質)によって解決する」
この一文は、事業の世界で「バリュープロポジション(顧客に提供する価値の定義)」と呼ばれるものにあたります。ただ、用語を知っている必要はありません。要するに、誰の何を解決するのかを自分の言葉で言えること——それがすべての出発点だ、という話です。
単純に見えますが、研究シーズからこの一文をつくるには、3つの判断が要ります。
- 研究のどこを切り出すか — 論文の主結果がそのまま事業の核になるとは限りません。副産物の装置、途中で作った計測手法、データセットの方が、課題に対しては速く役に立つことがあります
- 誰の課題に当てるか — 同じ技術でも、当てる相手によって事業はまったく別物になります。候補を複数書き出し、「その課題は本当に切実か」「対価を払う理由があるか」で絞ります
- 検証できる文になっているか — 「社会を良くする」「業界を変える」では、確かめようがありません。相手に会いに行けば真偽が分かる粒度まで、言葉を具体にします
この一文は、一度で正解にたどり着くものではありません。相手に会って外れたら書き直す、その往復のための出発点です。最初から正しい一文をつくることではなく、検証できる一文を早くつくることに価値があります。
一文ができると次の一歩が全部決まる
一文の効果は、資料がきれいになることではありません。次にやることが決まることです。「誰の」が決まれば、会いに行く相手が決まります。「何の課題」が決まれば、ヒアリングで確かめる問いが決まります。「技術のどの性質」が決まれば、試作で示すべき最小限の範囲が決まります。逆にこの一文がないまま進むと、技術デモは立派になっていくのに、誰に見せるべきかが最後まで曖昧なままになります。
外部の目から見ても、この一文は効きます。2026年の大学発ベンチャー表彰の最終ノミネート6社は、迷走神経刺激デバイスから養殖技術、CO2直接回収まで領域がばらばらです。それでも並べて見ると共通点があります。どの会社も「誰の何を解決するか」が一文で言えることです。ピッチ審査の経験からも、聞き手の記憶に残るのは技術の新規性ではなく、この一文の明瞭さです。
研究者がひとりで抱え込まなくていい
この工程を研究者がひとりで完結させる必要はありません。むしろ構造的に、ひとりでは難しい工程です。研究の中身を一番知っているのは本人ですが、「どの切り出し方が相手に刺さるか」は、外から問われて初めて言葉になることが多いからです。私たちがメンタリングで担っているのも、答えを渡すことではなく、切り出し方の候補を一緒に広げ、検証できる一文まで絞る問いかけの部分です。
大学や自治体の支援プログラムも、この工程から始まる設計になっているかを見る価値があります。技術の磨き込みや事業計画書の作成から始まるプログラムは、翻訳の一段を飛ばしています。最初の90日でやるべきは、計画書を厚くすることではなく、一文をつくって、それを持って人に会い、書き直してくることです。
会社をつくるかどうかの判断は、そのあとで十分間に合います。研究をやめる必要も、最初からCEOになる覚悟も要りません。まず、誰の何を解決するのかを一文にする。研究がすでに社会の誰かの課題と接続しているなら、その一文は書けるはずですし、まだ書けないなら、それが分かること自体が前進です。
起業するならコミットを宣言できるか
一文ができ、検証の手応えが見えて、いよいよ会社をつくる。その判断の場面でもうひとつ重要になるのが、事業へのコミットを自分の言葉で宣言できるかどうかです。創業者として株式を持つなら、私たちは目安を置いています。資金調達の前ならハーフタイム——月80時間以上。調達後はフルタイム——月160時間以上を、事業に使えるか。
根拠は株式の性質にあります。創業者の株式は、過去の研究成果への対価ではなく、これから事業を前に進める働きと引き換えに持つものです。そして投資家が出資するのは技術そのものではなく、それを事業に変えて返していく体制です。検証、顧客対応、採用、次の調達の準備——事業側の仕事は、研究の合間の余り時間で回る量ではありません。調達後にフルタイムで事業を前に進める人がいない会社は、預かった資金を執行できず、出資の前提そのものが崩れます。
コミットが難しい場合、それは起業をやめる理由ではなく、関わり方を設計し直す材料です。自分は技術顧問として関わり、経営を担う共同創業者を迎える形もあれば、時間を確保できる時期まで創業を遅らせる判断もあります。避けるべきは、コミットを曖昧にしたまま創業者として大きな株式を持つことです。ここが曖昧なまま進むと、共同創業者との関係でも次の調達でもつまずきやすい——支援の現場で見てきた実感です。
事業の言語化は、私たちが企業やスタートアップに提供している仕事の中心にある工程です。詳しくはトップページの事業紹介をご覧ください。